音楽・インタビュー 2006.4.10 磐田|ニューヨーク

amica ニューヨークで、日本語のオリジナル曲を歌う 

磐田市出身のシンガー・ソングライター アミーカ さん
 おとぎ草子(浜北)でのライブ 2006.4.7
 
 「天平のまち」 (磐田)ミニコンサート 2006.4.8
 
 FM Haro! 公開生放送風景 2006.4.8
 
amica (本名:中田あゆ美)
  • シンガー・ソングライター
  • ニューヨーク在住(静岡県磐田市 出身)
アルバム「BEYOND SELF」
Recorded in New York City, U.S.A 2005
Release June 20 in JAPAN \1500
     August 15 in USA $10.00
  • Snow Angel / 冬の妖精
  • The Moonlight / 月の灯り
  • Fuwa Fuwa / ふわふわ(アミーカ)の子守歌
  • The Jubilo / 輝ける瞳
  • Spring has com / 春待ちわびて

 

歌に気持ちが表れるように、生の英語を学びに渡米

■11年前のことですが、アメリカへ行こうとした動機は音楽ですね、やっぱり。言葉に対するこだわりといってもいいかもしれない。日本を発つまで音楽をやっていて、その頃、シンガー・ソングライターというより、ヴォーカリストとして歌を歌う仕事のほうが多かったですが、要求される歌がほとんど英語なんです。英語の発音はすごく指摘されますから、ヴォイストレーナーについて英詞の和訳と発音の指導は受けていましたが、歌に気持ちが入っていないっていうのを感じるんですね。例えば、LOVEっていうせりふが出てきた時に、LOVEって言っているだけで、それを感じていない。歌を感じることができていないという大きな壁にぶち当たっていたんですね。英語の歌を歌って一番大切なのは、その歌詞を自分もかみしめていって初めて表現されるもので、聴いた人もそれをキャッチする。聴く人と一体になる。そのために生の英会話を学ぼうと、渡米を決意したんです。どこに行こうかっていろんな人に聞いたら、当時、ヴォイストレーナーの仕事もしていたから、生徒さんに海外での滞在経験のある人もいて、「絶対ニューヨークだよ」っていわれたんですね。それで、ニューヨークに決めて、内緒で一年間貯金を始めたんです。

いろんな人と出会い、音楽活動を始める

■ニューヨークに行ったら、何かがあったんですね。もう離れられなくて。すごくラッキーだったんですね。運命だといえば、運命なんだけど。
1995年にニューヨークに、それは学生として渡ったんです。日本人の友達に、「私は歌を教えていた」って言ったら、「ニューヨークには日本人がいっぱいいるから、日本語で歌を教えてほしい、日本語の歌を歌いたいっていう人もたくさんいるよ。広告出したら」っていうんですね。それで、日本語の新聞にヴォイストレーニングの広告出したら、すごい反響で、日本人もしくは日本語をしゃべるハーフとか、生徒がたくさんになるんですね。そこで今度は、日本の音楽をビジネスとしている会社の人たちに出会うんです。「うちの専属のアーティストを育ててくれないか」という感じで、どんどんすごい速さで音楽活動ができるようになっていったんです。
そして、生徒の中にミュージシャンをボーイフレンドに持つ人が現れたんですね。彼女も音楽が好きで、いろんなコンサートに顔パスで入れるような人で、もう、頻繁に連れて行ってもらうようになって、彼女のフレンドミュージシャンにどんどん紹介してくれるんですね。自分の知らなかったアーティストにものすごい勢いで、いろんなひとに出会って、私のニューヨークでの初めの数年間は、今に自分になるのに、流れを変える出会いがいっぱいあったんです。
例えば、あるバンドのライブを頻繁に見に行った時に、一応売り込むんですよ、「私はキーボード弾けるんだよ、もしなんだったら言ってください、私お金要らないから」って。じゃあやってみるって、入っていったら、「あ、役にたつ」っていうことでギャラが発生していくとか。プロデューサーに出会って、あとで聞いたらすごいひとだったり、ほんとにいろんな人と出会うんですね。ニューヨークではとにかく演奏することですね。そこには必ず誰か音楽の関係者が来ていて聴いてくれているんです。メジャーなミュージシャンとも知り合いになって、一緒に演奏する。私は現地の人か、海外から移住してきた人たちと気が合うんですよね。音楽活動に関しては、自分がいつもとてもいい状態でそこにいましたね。

演奏をしなくなった時期に、歌を歌った瞬間に涙がでた

■その後、音楽を続けることに苦しみを感じるようになって、何度も「音楽活動をやめたら、もっと私は楽に生きられる」って考えて、しばらく演奏をしなくなったんです。自分がどんどんノイローゼみたいに変になっていくのを感じた。「なんでこんなにイライラ、悲しくなるんだろう」って、一人でヘッドフォンして、エレピ弾いて、マイク通して歌って、っていうそれだけを毎日続けるんですね、演奏しないで。そうすると、一瞬にして涙が出るんですよ。ニューヨーク生活が長くて、どんどん強くなっていく自分が分かっていて、普通の生活でこれほど涙が出ない人間が、自分が歌を歌った瞬間に涙が出るっていうことは、もしかしたら、やっぱりここに自分の全てがある、感動できるって感じたんですね。これをやめてはいけないって思いはじめたんですね。

テロ事件をきっかけに、自分の中の何かが変わった

■そんなときにテロ事件(2001年9月11日)があって、ショックというか、悔しかったんですね。ニューヨークがさびれちゃうみたいな、そんな姿を見たとき、「立ち上がれー」ていう感じで書いた、「Sun will Rise」という曲を歌い出したら、いろんな人から「これはいい曲だ、力をもらった」って言ってくれて、自分が思った以上の反響があったんですね。それからの自分には、空想が書けないんですね。自分が何かをキャッチしてハートがキュッとしたものをリアルに、素直に曲にして表すようになったんです。
それまでは、普通のものから、まったく空想、宇宙をテーマにしたものとか、いろいろ書いてるんですけど、テロ事件をきっかけに、自分の中でカチッと何かが変わってきたんですね。

拉致事件を知って、何かできないかと考えて作った曲 『春 待ちわびて』

■私が最初に北朝鮮による拉致事件を知ったのは、2002年10月のあの5人が帰ってくるのを知った時からです。ものすごく衝撃を感じたので、毎日TVを釘付けになって見ていたんですね。こんな事件があったんだ。それまで何にも知らなかったんで、日本のニュースを毎日見ていました。それで「何かできないかな?」って本当に思ったんですね。ずっと考えていたけど思いつかなくて、自分は音楽書く人間だから、そのまま音楽作ってみようと作り出したのが2003年に出来上がって、それが「春 待ちわびて」なんです。後半の部分にハングルでポエムを詠んでるんですけど、サビの部分を韓国人の友人にお願いして、彼らの表現にして書いていただいているんです。すごく思い入れのある曲ですが、はじめはただ、ライブ等で演奏していただけでした。
2004年にドラマーを同行させて磐田で演奏して紹介したら、反響があったんです。CDないんですかって言われ、ないんですって。「この次に来るときには、この曲の入ったCDを是非持参してほしい」って頼まれたので、そのことがずっと頭にあって、去年(2005年)、3月頃から呼びかけて、ニューヨークの地元のミュージシャンを集めて作って約束どおり持ってきたんです。CDタイトルは『Beyond self』といって、拉致被害者とその家族の気持ちを歌った曲は「春 待ちわびて」ともう1曲「月の灯り」が入っています、あとジュビロ応援歌の「輝ける瞳」とか、5曲すべて日本語の曲です。それがまた反響があって、また広がったんです。

日本語の美しさに気づき、自分の中での「日本語プロジェクト」

■今言ったように、このCDの中の曲は全部日本語なんですが、それをアメリカ人のスタッフ、ミュージシャンと制作したんですが、歌詞を英語に訳していないんです。アメリカでもオリジナルの日本語で歌っていたんですが、そのときも英語に訳せっていう話はあったんですが、訳さなかった。ストーリーは大まかに説明するんですが、細かに説明する必要はない。なぜなら、それを知らなくても、私が歌っているときの表情でこの曲を感じ取ってほしいって言ったんです。
それには、理由がありました。アメリカに行った最初のころはアメリカに馴れるのに必死だったんですね。だから、意地を張るくらいに日本のものを受入れない自分がいたんです。食べ物でも何でも向こうのもので全部やろうとしていて、なんでそこまで意地を張っているんだって言うくらいに、自分でもイライラしていたんですね。あるとき急に疲れて、なんで私はこんな頑固者なんだって、「食べたいと思ったら日本食たべたらいいし、日本語をしゃべればいい。ちょっとリラックスしてもいいじゃないか」って思う時がきたんです。今から3年ぐらい前、たぶん停滞していた音楽活動をまた始めた頃だと思うんですけど。英会話もできるようになって、食べ物にも馴れて、向こうの生活に全然満足ができて、お米がなくても生活できたんですけど、やはりそこで、お米がおいしいと思うようになったんですよ。要するに、私は日本人だなって、思うようになったんですよ。おかずがなくても白いご飯だけで食べる自分に気がついたんです。「お米がこんなにおいしい、日本人なんだなー」って思ったんですね。
日本語を美しくしゃべる、どんなに海外に暮らしていても日本語だけは忘れちゃいけないって思うようになって、2004年ごろから大きく変わり始めたんです。ちょうど「春 待ちわびて」を作っていた頃ですね。その時に、日本語の美しさに気がついたから、私の中で勝手に『日本語プロジェクト』っていうのを立ち上げるんです。日本語というのは、一つの音符に対して、一つの文字をあてはめていくんですよ。「さくらさくら」っていうのを英語で歌えって言うから Cherry blossom ってやると、何かリズムが違う。だから、日本語を美しく世界の人に聞いてもらうには、やはり作り方も考えなくちゃいけないって思うようになったんですね。
ですから「春 待ちわびて」も歌詞とメロディの組み合わせとかにとても気をつけて、日本語と特徴を生かした歌にしようとすごく考えて作ったんですね。それを、アメリカで、日本人が一人もいないところで歌ってみたんですね。すごく受けちゃったんですよ。彼らが言うんですよ「いい曲だね。でも、何いっているかわからない」って。それはバカにしているわけじゃなくて、「何を言っているかもし訳してくれるんだったら、もっと曲の価値が上がるかもしれないけど、それは重要じゃない」っていうことなんですね。それで、よし、あえて海外で日本語で歌ってみようと、日本語で歌い始めたんです。すると、「なんで英語で歌わないんだ、それじゃ伝わらないよ、ここはアメリカだよ」っていう日本人がいるんですね。でもいいんです。言葉だけで伝えようとすると、言葉の語彙に頼って、心を忘れちゃう。だって、インストルメンタルがあるじゃないですか。インストルメンタルだけなのに、みんなが「ああ、いいね」って言うじゃないですか。じゃ、なんでヴォーカルが言葉を入れたときに、分かる分からないっていうのか、それを音として同じように聞くことができないだろうかと反論し続けたんですね。そしたら、日本語で歌っている曲に、「世界で、日本語を堂々と歌ってくれる人がいてうれしい」っていってくれる日本人がいて、私はそういう人に「ありがとう」って言うのね。

「拉致救済コンサート」は、初めは数人の小さな集会が大きな渦になった

■今回、4月22日にワシントンDC「拉致救出支援コンサート」をやるんですが、その取っ掛かりは、去年の7月、私が磐田に帰っていたときにたまたまTVでちらっと見たニュースなんです。横田めぐみさん拉致事件の映画を、アメリカ人が作っているというニュースが流れたんです。パティとクリスというアメリカ人が、アメリカで拉致事件を取りあつかった映画を作っているっていうんでびっくりしたんですね。何もしっかりした情報はなかったのですけど、インターネットですぐに検索して調べたら、一発で見つかったんですね。パティとクリスのWEBサイトがあり、Emailでコンタクトしたら、返事が来たんです。私が日本人のアーティストで拉致事件に関心を寄せていると伝えたら共感していただき、私の曲にも興味を持っていただいたんです。それから、当初この映画の上映会を計画していた「ワシントンDCらち連絡会」を紹介いただいたんです。そして、この映画「アブダクション(拉致)」の上映会のパーティーで、音楽を担当することになったんです。しかし、この映画がインデペンデント・フィルム・フェスティバルに参加していたために上映会は延期となって、代わりに、昨年12月26日に拉致被害者救済のためのデモがホワイトハウスの周りで6名で行われたんです。小さくてもこれが話題になったので、「ワシントンDCらち連絡会」ではさっそく次のを計画したんですね。次は4月22日と日を決めて、今度は音楽コンサートをメインに持ってきて、そのサイドでスピーチとデモ行進をするっていうことをです。そこで私に連絡してきて、1時間演奏してくれないかというので、「分かりました、喜んでやらせていただきます」っていうことで話を進めてきたんです。目標は今度は100名以上集めるっていうことだったんですが、このボランティアにどんどん人が集まって、韓国の団体も入ってきて、ものすごく大きな集会になってきたんですね。それでメディアも注目してきて、日本から家族会の増元さんも参加することになって、さらに注目されるようになったんです。

日本人が、アメリカで、日本語のオリジナル曲を歌う

■ところが、ホワイトハウスの真横に、ラファイエット公園って言うのがあってそこでコンサートするんですが、運悪くその日だけ電源が使えないっていうことになってしまったんです。はじめは、アカペラで歌うしか仕方ないね、っていっていたんですが、それじゃ惨めだからって、発電機を用意するって言うことになって、そのボランティア団体はお金がないから、特例として募金活動しようということになったんです。それじゃ、私も何かできることしなくちゃと思い、この「拉致被害者救済コンサート」のPRとCDの売り上げの50%を寄付するということで募金のため、急遽帰国して、コンサートを開くことにしたんです。初めは、浜松と磐田だけの予定だったんですが、東京・成城でも「日本人拉致を救う会(NRSP)」が支援ライブを開くことになり、拉致被害者家族会事務局長の増元照明さんや政府は認定していない特定失踪者のご家族も参加されました。4月22日の集会・コンサートには家族会の増元さんも参加することになり、日本の拉致関係のメディアも加わって、当初思っていた以上に大きなうねりになって、想像できないくらい大きなものになってきているんです。自分でも、自分のスタッフも驚いているです。
私がこういう曲を書いているから、多分メディアも関心もつんだと思うんですけど、私は感じるものに対して曲を作るから、たまたまこういう事件だとかが題材なってしまっているんです。ほんとに作っているときの気持ちは100%応援したいと思っています。想像するに、メディアの人も最初は半信半疑だと思うんです。でも、実際にライブ会場に来てくれて、歌を聴いてくれて、私の気持ちが本当に伝わって、何かを感じてくれてると思うんです。

それは多分、私が自分の国、日本にずっといたら感じなかったもので、こういう曲は絶対に生れなかった、書いていなかったと思うんですね。
日本人がアメリカで、日本語の自分のオリジナルの曲を歌うっていうことは、もしかしたら、これまでなかったことかもしれない。そういうことからも、私の音楽活動は、これからですね。

※2006年4月10日、茶寮「Zappa」(磐田市)にて、お話を聞きました。(インタビュー:murata)